本 「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」|サリンジャーによる、静かな語りの奥にある、ひとつの不在

今回は、少しばかり夢子自身も整理しきれない乙女視点を、ひけらかしてしまうかもしれません。

ふとしたときに、本当にふとしたときに、グラース家って今どうなっているんだっけ、と思い出します。
ある種謎めいている作家、J・D・サリンジャーの一連の小説を彩る、あのグラース一家のことです。

サリンジャーという作家は『ライ麦畑でつかまえて』でよく知られていますが、夢子的には、このグラース・サーガのほうが、ずっとどこかで「いつまでも」気になっているんです。
たぶん、これは一生解消されない気がします。

■グラース一家ご紹介
シーモア:長男。グラース家の物語の中心をなす人物。
バディ:次男。作家。兄弟姉妹を記録する、一家の視点人物。
ブー・ブー:長女。実務的で温かく、家庭性のある良識派。
ウォルト:三男。魅力的で軽やか、しかし早逝する幻のような存在。
ウェイカー:四男。ウォルトの十二分後に生まれた双子。作中では言及の少ない存在。
ズーイー:五男。俳優。知的で辛辣だが、繊細さの精度も高い。
フラニー:純粋で傷つきやすく、信仰と救いを求める多感な妹。
レス:グラース家の父親。登場頻度は少ないが、『これは神童』というラジオのクイズ番組に子どもたちを出演させる。
ベシー:グラース家の母親。アイルランド系。『ズーイー』で印象的に登場する。

これ、定期的に降りてくるのです。
あのとき、ブー・ブーはなんて言っていたっけ。
ズーイーは、どんなふうに言い切っていたっけ。
そんなことが気になってきて、またサリンジャーを読み返し始める。

このループはとても心地いいのだけれど、毎回「どこにしまったっけ」と本を掘り起こす作業だけは、ちょっと面倒です。

ということで今回は、夢子が個人的にとても好きな『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』 を取り上げます。

■あらすじ
1942年、戦時下のアメリカ。
軍服姿の若者たちが街を行き交い、世の中全体がどこか落ち着かない明るさに包まれていたころ、バディは陸軍の休暇をもらい、兄シーモアの結婚式に出るためニューヨークへ向かいます。戦争が人びとの暮らしを少しずつ変え、物資や空気にまで“節度”を求めていた時代です。ところが式当日、肝心の花婿シーモアは現れません。
残されたバディは、花嫁ミュリエル側の人たちと車に乗り合わせ、蒸し暑い街のなかを流されるように過ごすことになります。渋滞、行進、気の利いたはずの会話、そして少し行きすぎた詮索――そのどれもが、当時のニューヨークらしいよそゆきの礼儀と、息苦しいほどの近さを感じさせます。

その道中で語られるシーモア像は、どこか“扱いにくい人”としてのものばかりです。
けれどバディにとって兄は、そんな言葉で片づけられる人ではありません。
姿を見せないまま、かえってその存在だけが一日じゅう濃く残っていく。

“花婿が来ない”という困った出来事の向こうに、ひとりの人の繊細さや、他人には届きにくい美しさが静かに浮かび上がってくる。
そんな、不思議な物語です。


ここから先は、物語の核心に少し触れます。

結局、シーモアはただ結婚式を放り出したわけではありません。
彼はミュリエルとすでに一緒にいて、駆け落ちのようなかたちで結婚していました。

ただ、この事実が明らかになっても、読後感はすっきり晴れやかにはなりません。
物語の終わりには、シーモアがその数年後に悲劇へ向かうことが、すでにほのめかされているからです。

この作品の魅力は、「花婿が来なかった理由」への驚きというより、ひとりの不在の人が最後まで場の空気を支配しているような、不思議で静かな余韻にあります。
人づての言葉のなかで、シーモアは気難しい人のようにも、風変わりな人のようにも見える。けれどバディのまなざしを通すと、その奥にある孤独や純粋さが、ふっと別の光を帯びて見えてくるのです。

少し困った人ではあるのだけれど、それでもどこか美しく、簡単には笑い話にできない。
そんなシーモアの気配が、この作品には漂っています。

とはいえ、結婚式の日にそんなやり方を選ぶのは、やはり少しばかり自由すぎる。
いくらなんでも、それは周囲があたふたしてしまうよ……と言いたくなるのも正直なところです。実際、花嫁側の人たちはかなり憤慨し、バディはその視線のなかで兄をかばうことになります。

それでも、この作品がほんとうに印象深いのは、“事件の結末”そのものより、その日いっぱいに漂う不在の気配です。
暑い街、少し窮屈な車内、よそゆきの会話、ソーダやトムコリンズで気を持たせる時間。
そのひとつひとつのなかに、シーモアは姿を見せないまま居続けます。

バディの目を通すことで、彼は風変わりな人というより、あまりに繊細で、世間の型にうまく収まれない人として見えてくるのです。
花嫁側の人物たちがシーモアを精神分析めいた言葉で評し、バディが強く反発する場面も印象的でした。

「彼は詩人なんだ。本物の詩人なんだ。・・・」
(野崎孝 訳)

そして結末で明かされるのは、拍子抜けするほど唐突で、シーモア、さすがにそれはだめでしょう――と言いたくなる。
でも、それだけでは終わらない静けさが、作品の最後にそっと残ります。

バディだけは、兄の本質を知っている。
けれど、そのことをいくら言葉にしても、他人にはなかなか伝わらない。
家族のなかでだけ切実にわかっているものは、案外、外の人にはうまく共有されないのだなと思わされます。

四月になると、過去や青春の苦々しさをふと思い出すように、夢子的にはサリンジャーの季節です。

そして、この作品を読むと、なぜだか 映画『小説家を見つけたら』を見たくなるのです。